すごい 雑感

思いついた事を書いていくところです

幸せの閾値

先日ツイッタで話をした、幸せの閾値について書いてみようと思う

 

閾値というのは、このラインを越えると、反応が出ますよと言うところであり

例えば痛みの閾値というと、ボールペンで手のひらに文字を書いても痛くは無いと思うけど

ぐいぐいと力を込めると、ある一定ラインから「触っている」という感覚を通り越して「痛み」へと変わる

この瞬間の力の事を閾値と言う

 

で、今日話すのは、幸せの閾値について

つまり、ここを越えたら幸せと感じると言う事は

一体どこにあるのか。と言う話ですね

 

案外というか、私は実はこの幸せの閾値が低いのか些細な事で幸せを感じます

例えば、朝起きて天気が良かっただけでも、良いことだなぁと思いますし

弁当に入れる卵焼きが上手に焼けたときも(時々大成功します)

今日は良い日だなぁと思います

 

仕事も、真面目に働けば食べるに困らない程度のお金は貰えるし

こうやって一人暮らしで何不自由なく生活できている

まあ、結婚していない事に関しては、正直親には悪いとは思うけど

こればかりは私個人の能力だけではどうにも出来ないので

今のところは勘弁して欲しいと言うしか無いところではある

 

昨今の日本の事情を考えると

結婚することが是か非かと言う問題はあるけど

それについて論じる場では無いので、今回は割愛しよう

 

ま、総合すると、私は些細な事で幸せを感じることが出来る

安い人間と言うことですね

まー。この不景気の今、安上がりって良いじゃない!

と無駄にポジティブシンキングしたりします

 

それと、この事について考えてみたときに、

ふと思ったのが、私の不幸耐性が強いのでは?と言う事について

不幸だ、辛いと言う事を感じる閾値が高いために

些細な事では辛いと感じることが無い状態なのでは?とも思ったり

 

一見すると良いように思いますが、これは逆に危険である

一切の痛みを感じなくなれば、転んでもぶつけても大丈夫かと言うと

決してそんなことは無いので、怪我したりする事は重なっていく

怪我した事にすら気づかない状態であるなら、それはもう危険な事なのだ

 

もしかしたら、何か大事な数値をガンガン削りながらも

痛みを感じない状況になっているだけだとしたら

それも危険ではあるけど、まあいいかなとは思う

時には、変な人が居ても良いじゃないと言うことで

 

まあ、おそらくは私が案外おっとりというか

鈍感なので、そんな些細な事には気づいていないと言う

天然タイプという可能性の方が高いけども

これからも、些細な事を幸せに感じながら

生きていく事になるでしょうなぁ

 

ああ。書いていたらまた思い出した

私は「生きているだけで幸せ」という事も感じていると言う事を

生きたいと願いながら死んでいった人たちが大勢いるのだから

今を生きている私は、幸せ者だな。と思えちゃう

 

だから、真面目に生きすぎて辛いと言う人には手を差し伸べたい

生きている事だけで良いんだよ。って言ってあげたい

私の考えはそう言うところも、ありましたなぁ